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ジョージ・オーウェル「カタロニア讃歌」2010/01/03 06:02:01


ジョージ・オーウェル「カタロニア讃歌」岩波文庫(1992)

スペイン内戦に共和国側民兵として参加したジョージ・オーウェルのルポルタージュです。オーウェルの参加した戦線は激戦とは程遠いが、戦争の実態を生き生きと伝えます。イギリス人らしいユーモア、偏見の無い視点、冷静な表現は見事です。

さらに、共産党による非共産党マルクス主義グループ(オーウェルが参加した民兵の属するグループ)やアナキストに対する弾圧の実態を知らしめた功績は大きいものがあります。

リードの「世界をゆるがせた十日間」と並ぶルポルタージュの傑作です。



イアン・ブルマ「戦争の記憶―日本人とドイツ人」2010/01/25 06:00:00


イアン・ブルマ「戦争の記憶―日本人とドイツ人」 ちくま学芸文庫(2003年)

日本とドイツの戦争責任の「記憶」のされ方について、「敵国」オランダのジャーナリストによる「ルポルタージュ+インタビュー+エッセー」(文庫版訳者あとがき)による考察。当然、単純に、ドイツは戦争責任を良く認め、近隣諸国とも良好な同盟関係を結び、日本は戦争責任を曖昧にし、近隣諸国と政治的軋轢を繰り返す、というステレオタイプで話が進んでいくわけではありません。

ドイツの場合、ヒトラー=ナチスのあまりにも突出した暴力性「アウシュビッツ」が有るがために、ドイツ自ら、ナチスの戦犯を裁き続けるとともに、ナチス以外の一般ドイツ人や国防軍の戦争責任はあまり明確にしていない。日本は、右翼・保守派は戦争責任を認めず正当な戦争であったと主張(保守派の主要な政治家には本人や親族が戦犯であったものが多く、認める訳にはいかない)、戦後の日本はアメリカによる押しつけ憲法でアイデンティティを失っており、天皇、再軍備等会見を主張する。一方左翼陣営は、憲法九条による非武装主義が、冷戦拡大に伴いアメリカの要求で再軍備、日米安保体制により変更を受け入れざるを得なかった、とそれぞれ主張している。アメリカが悪いという点で左右は一致している。そもそも、日本は自ら戦犯を裁くということは全くしていない。極東軍事裁判のみを根拠とするため、勝者の不当な裁判などと言う右翼の言説がまかり通ることになる。

日本においては、南京事件、花岡事件などの残虐事件の実態の解明が遅れており、近年(80年代)になりようやく証言が得られるようになってきた。こうした証言をもとに、事件の真相を記録することが日本の戦争責任問題には不可欠であろう。右翼、保守派のいう、「戦争にはこの程度の残虐行為は付き物で他の国でもやっている」は、まさに、子供が「みんなもやっているんだから僕は悪くない」と駄々をこねているのと変わりない。

さらに、「ヒロシマ」の問題も奇妙な様相を呈している。原爆投下に至った(満州事変、日中戦争、太平洋戦争という))経緯、軍事都市広島の位置づけなど、無視され、ひたすら、ヒロシマの被害を強調する態度は、普遍性を欠いたものと言わざるを得ない。当時広島に抑留されていた米兵が原爆投下後、市民に虐殺されたことなども伝えられていないようである。ヒロシマやナガサキは、オバマ核軍縮路線に支持をあたえると言っているが、こうした視点貫の反核運動は、違和感をもって迎えられるのではないか。

ドイツにも問題ありであるが、日本はそれ以上に問題が大あり。戦争の真実を真摯に認めて、政治軍事の中枢に何が起き、何故ほぼ全ての日本人は戦争に賛成し、残虐な戦闘をおこうことの疑問を感じなかった。日本字には、何故そうなったのかを十分に知り、批判する作業が絶対に必要がある。



ドストエフスキー「悪霊」2010/01/26 08:00:00


ドストエフスキー「悪霊」新潮文庫(1971年)

この本は、革命派学生の仲間割れによる殺人事件を題材にしたという言い方がされていることが多いようですが、この事件は数あるエピソードの一つにすぎないものです。「中核vs革マル内ゲバ殺人」「連合赤軍事件」などを想像していると、実際は陳腐な理由による殺人で肩透かしをくいます。(ドストエフスキーは社会主義嫌いだったようですが、描がれる社会主義者達が薄っぺらすぎて戯画にしかなっていない)

ドストエフスキーらしく「変人」達が次から次へと登場して、ストリーをあっちへこっちへと引き回します。しかも「変人」の数が半端じゃありません。ステパン氏とワルワーラ夫人、それぞれの息子のピョートルとニコライが主要な登場人物ということになるんでしょうが、主人公を決定するのは難しいと思います。

通常ニコライは、ドストエフスキーが造形した最悪の人間の一人といわれるようですが、私の印象では、病的で残酷ではりますが、登場人物中で唯一自分を冷静に見ることのできるクールな人物です。殺人事件の黒幕という解釈もされているようですが、単に彼は一般的なアイデアを皮肉をこめて語っただけと思われます。一方ピョートルは、ニコライに纏わりつき、ニコライを「革命のカリスマ」に祀り上げようとしますが、ニコライに呆気なく拒絶されます。革命家殺人事件や町の名士の間で起こす大乱痴気騒ぎ、さらに放火、殺人の教唆など、実際の悪事(社会秩序の破壊活動)はピョートルの仕業または指揮によるものです。

本編に入らなかった「(ニコライ)スタブローギンの告白」は有名ですが、これもよくわからない文章です。ニコライが修道院のチホン僧正に犯した罪、作中示唆されていた複数の罪に加え、もっと反道徳的な罪も「告白」するのですが、ニコライはこの「告白」多数印刷して、国内外にばら撒くつもりだとも言っています。ニコライのやりたかったことは、キリスト教徒としての告白なのか、反道徳・反社会秩序のプロパガンダとして広く知らしめることだったのか。

最後にニコライは自殺し、ピョートルは逃亡し行方不明になってしまいます。非常に謎めいた作品のようです。

このドストエフスキー式の謎めいた作品を楽しもうという人には打ってつけな作品だと思います。