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イアン・ブルマ「戦争の記憶―日本人とドイツ人」2010/01/25 06:00:00


イアン・ブルマ「戦争の記憶―日本人とドイツ人」 ちくま学芸文庫(2003年)

日本とドイツの戦争責任の「記憶」のされ方について、「敵国」オランダのジャーナリストによる「ルポルタージュ+インタビュー+エッセー」(文庫版訳者あとがき)による考察。当然、単純に、ドイツは戦争責任を良く認め、近隣諸国とも良好な同盟関係を結び、日本は戦争責任を曖昧にし、近隣諸国と政治的軋轢を繰り返す、というステレオタイプで話が進んでいくわけではありません。

ドイツの場合、ヒトラー=ナチスのあまりにも突出した暴力性「アウシュビッツ」が有るがために、ドイツ自ら、ナチスの戦犯を裁き続けるとともに、ナチス以外の一般ドイツ人や国防軍の戦争責任はあまり明確にしていない。日本は、右翼・保守派は戦争責任を認めず正当な戦争であったと主張(保守派の主要な政治家には本人や親族が戦犯であったものが多く、認める訳にはいかない)、戦後の日本はアメリカによる押しつけ憲法でアイデンティティを失っており、天皇、再軍備等会見を主張する。一方左翼陣営は、憲法九条による非武装主義が、冷戦拡大に伴いアメリカの要求で再軍備、日米安保体制により変更を受け入れざるを得なかった、とそれぞれ主張している。アメリカが悪いという点で左右は一致している。そもそも、日本は自ら戦犯を裁くということは全くしていない。極東軍事裁判のみを根拠とするため、勝者の不当な裁判などと言う右翼の言説がまかり通ることになる。

日本においては、南京事件、花岡事件などの残虐事件の実態の解明が遅れており、近年(80年代)になりようやく証言が得られるようになってきた。こうした証言をもとに、事件の真相を記録することが日本の戦争責任問題には不可欠であろう。右翼、保守派のいう、「戦争にはこの程度の残虐行為は付き物で他の国でもやっている」は、まさに、子供が「みんなもやっているんだから僕は悪くない」と駄々をこねているのと変わりない。

さらに、「ヒロシマ」の問題も奇妙な様相を呈している。原爆投下に至った(満州事変、日中戦争、太平洋戦争という))経緯、軍事都市広島の位置づけなど、無視され、ひたすら、ヒロシマの被害を強調する態度は、普遍性を欠いたものと言わざるを得ない。当時広島に抑留されていた米兵が原爆投下後、市民に虐殺されたことなども伝えられていないようである。ヒロシマやナガサキは、オバマ核軍縮路線に支持をあたえると言っているが、こうした視点貫の反核運動は、違和感をもって迎えられるのではないか。

ドイツにも問題ありであるが、日本はそれ以上に問題が大あり。戦争の真実を真摯に認めて、政治軍事の中枢に何が起き、何故ほぼ全ての日本人は戦争に賛成し、残虐な戦闘をおこうことの疑問を感じなかった。日本字には、何故そうなったのかを十分に知り、批判する作業が絶対に必要がある。



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