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ロバアト・オウエン(著)五島茂(訳)「オウエン自叙伝」岩波文庫2010/05/14 04:40:03


ロバアト・オウエン(著)五島茂(訳)「オウエン自叙伝」岩波文庫(1961年)

ロバアト・オウエン(1771-1785)の自叙伝です。「ワンダーボーイ」のマイケル・オーウェン(1979-)ではありません。マルクス・エンゲルスの言う空想的社会主義(utopian socialism)のシャルル・フーリエ、アンリ・ド・サン=シモン、ロバート・オウエンの3人の内の一人。

オウエンは、1771年、ウェールズで、馬具や金物を扱っていた家庭に7人兄弟の6番目の子供として生まれた。幾つかの小売商で商売を学んだあと、1780年頃からマンチェスターで工場を経営、1799年には、スコットランド・グラスゴーの工場ニウ・ラナアック(ニュー・ラナーク)を経営していたデイヴィッド・デイルの娘カロラインと結婚、のちニウ・ラナアック(ニュー・ラナーク)の共同経営者となった。

オウエンは、労働者の労働条件を改善、特に幼少の子どもの工場労働を止めさた。子供たちにむけて、性格改良のための幼児学校を工場に併設した(幼児性格形成学院)。幼児教育の最初の試みであった。教師は子供に決して威圧的なあるいは懲罰的な態度をとらないことを絶対条件とし、ダンス・音楽・軍事教練を中心に、教室での授業では、掛け軸を利用する教育方法がおこなわれた。

その後、ニウ・ラナアックでの経験をもとに、1814年から工場労働者の権利保護(児童労働の禁止)の法律制定に向け活動を開始した。しかし、同業者からの強い反対を受け議員による骨抜きが進み、オウエンは熱意を失う。

1817年には、幼児教育による高い労働力の育成、労働者の環境改善と教育により、合理的な生産を実現する工場の建設を進めるべく講演会を開催した。その場でオウエンは、「現存全宗教の否定」を宣言した。

その後、オウエンはヨーロッパを外遊、多くの政治家、資本家、知識人と友誼を結び、多数のオウエンの持論の賛同者を得た(と言っている。)帰朝後は、再び労働者の環境改善と幼児教育の改善を目指して、有力聖職者、議員、貴族、王族などに対し運動を続けるも十分な成果は得られなかったようである。自伝の大筋はここまである。

実際のオウエンはこの他ににも、アメリカにわたり新しい共同体の創設を試みたり、イギリス国内の協同組合、労働組合などの設立にもかかわっていたようである。実績は非常に多岐にわたった人である。ただし、晩年心霊術にハマったようで、故人の王族と会話をしたなんてことも書かれています。

オウエンは社会主義者といっても、(出自はそれほどでもありませんが、その後は)裕福な資本家であり、労働者、その子弟に対しては、いささか家父長的な態度が感じられます。労働者、子弟をオウエンの理想とする人格にのみ形成して行こうとしています。もちろん、当時としては画期的な、労働者教育ですが、現在からみれば随分と独善的な方法でもあります。

オウエンの社会制度(the Owenian system of society)により社会を改革しその結果、社会は「黄金時代」(The Millenium)となると言っています。「共産主義と千年王国」という強い繋がりがここでも明らかとなっています。

「科学から空想へ」。もう一つのステップ。

そして現在のニュー・ラナークは世界遺産となっています(日本語が不自然...)。