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フリッツ・ブッシュ「指揮者のおしえ」2015/05/21 05:34:24

フリッツ・ブッシュ「指揮者のおしえ」(春秋社)という本を読んでいます。まだ途中なのですが、幾つか驚いた事が書いてあったのでメモしておきます。



「オペラ」(4章目)は、オペラについてとても悲観的な記述から始まる。自分の大劇場での20年の活動も満足できる結果を残せていない。もしかするとオペラは<映画>にとって代わられるかもしれないとまで言っている。映画であれば、最高の歌手、本当に力のある演出家、十分な音楽の準備によってオペラ作品の傑作をつくれるというのである。もちろん最も優秀なオペラ作品の実演にはおよばないが、日常的に劇場で上演されているような凡庸なオペラ作品は駆逐されるだろうという意味のことまで言っている。

つまり、当時一部の大劇場を除けば、歌手もオーケストラも能力が低く、ブッシュにとって全く容認できないレベルであったようである。オーケストラは十分な規模の編成を行えず、「いいかげん」な演奏しかできない、歌手は声は良いが音楽の心得が欠けているか、音楽の心得はあるが良い声をしていないといった具合。

歌手の演技や演出が映画と比較されるようになり、その質の低さががあらわになってしまったというのである。これでは観客に見放されるであろう、というわけだ。

一方、ブッシュは自分が指揮をした1932年ベルリン市立オペラ、ベルディ「仮面舞踏会」における非常に周到な準備の内容を細かく解説している。ここまでやって初めて、必要な水準のオペラが上演できるのだということだろう。

そして続く「歌手」(5章目)では、優秀な歌手の少ないことを嘆いている。歌手の教育手法が確立されておらず、声楽教師がてんでの自己流の指導をして、良い歌手をほとんど育てることができていないという。ある歌手は楽譜を理解できていなかったという話まである。歌手教育の組織化を望んでいたのだろう。このあたりも本書執筆の動機となったのかもしれない。

ただし、ここで語られている時代は、戦間期や第二次大戦中のことであり、制約も多かったであろう。とは言え、ヨーロッパのオペラはかなり惨憺たる状況であったようだ。

音楽大学等で、指導法を確立し、広い知識、教養や技能を身に着けた音楽家が潤沢に生み出されてこそオペラ上演の質は維持できる。その環境が整わなければヨーロッパでさえオペラ上演の質は低下するのである。

なお、この原稿の主要部分は1940年サンフランシスコからブエノスアイレスへの船上で口述筆記されたもので、一部はずっと前に書かれていたものもあるそうである。出版は著者の没後、近しい音楽家達によって編集された。

ブッシュはドイツ人であるがナチスを嫌い1933年に拠点をブエノスアイレスに移す。夏のシーズンはナチスの影響の及んでいない北欧で客演をしていた。1940年スカンディナビアに滞在中ドイツの侵攻が始まり、ソ連を経由して太平洋岸へ出て、日本(まだ真珠湾攻撃の前)を経由し、アメリカに渡り、そこからアルゼンチンへの帰路に就いた。このときに書かれたのが本書である。

おまけとして、奥波一秀「クナッパーツブッシュ 音楽と政治」にあった話。ブッシュがケルン音楽院の学生だった時、クナツパーブッシュも学生で、同じ指揮法のクラスを受講していたそうである。ブッシュは、クナッパーツブッシュがクラスメートの中で頭抜けた才能を見せていたといっている。

ただし、辛辣な指揮法の教授は、ブッシュに対してもクナッパーツブッシュに対しても「無能だ、音楽をやめるべきだ」と酷評していたらしい。自分より高い才能を持った人間を正当に評価するのは難しいということだろう。

さて、フリッツ・ブッシュは1951年に没しており、録音はSP期に行われている。特に意識してブッシュの録音なんて買ってないので、ブッシュの録音持っているのかと思って調べたら、幾つかみつかった。いずれも古い録音を激安BOXにして売っているドイツのMEMBRANのCDであった。

下からはベルディの仮面舞踏会(本書で詳説されている演目。もちろんこの録音は1951年でずっと後。フィッシャー=ディースカウの歌唱が二曲。

下からは1947年のブラームス交響曲第2番。Danish State Radio Symphony Orchestra

下からは1950年のハイドン交響曲第101番。Wiener Philharmoniker

意外と録音を持っていましたね。続きを読みます。

池田葉子「マイ・フォト・デイズ」2008/07/12 23:59:59


池田葉子「マイ・フォト・デイズ」枻文庫(2008年)

アマチュア写真家による、トイ・カメラやクラシック・カメラで撮影した写真集です。カメラと撮影についてのエッセイと写真が、著者の感性豊かな世界を伝えています。

2003年にトイ・カメラに偶然出会ってから始まった、著者の「フォト・デイズ」ですが、たった5年間で、かつ自己流(?)これだけの作品を撮られるなんて、いわゆる(努力する才能も含めて)天賦の才能と言うしかありません。

早朝の蓮池に撮影に行ったときに、偶然居合わせた写真教室の「先生」が、三脚の位置だの、構図だの、更には花に霧を吹きかけての演出だのと、色々教えようとするのに対して、著者の戸惑いを綴ったエッセイが愉快です。

小奇麗な写真を撮る「写真教室」テクニックと、著者の試行錯誤(かなりの苦労をされたと思われます)の中から生まれた撮影感覚。対極の撮影方法ですが、どっちの写真が面白いかは明らか。

皮製のカメラ・バッグやカメラ・ケースを手作りする話には、著者のカメラへののめり込みぶりが伺えます。

あれこれ注文をつけてくるクライアントもおらず、締め切りもなく試行錯誤を繰り返せる「自由」を最大限に生かす著者のやり方こそ、アマチュア写真家の正当な姿だと思います。

税込み714円でこれだけ楽しませてくれた著者に感謝です。

【著者のサイト】
HAPPA LOMO


ブルーノ・タウト展(ワタリウム美術館)2007/05/20 04:19:58

ブルーノタウト展

美術展の感想です。

ブルーノ・タウト展
アルプス建築から桂離宮へ
2007年2月3日(土)-5月27日(日)
ワタリウム美術館

ブルーノ・タウト(Bruno Julius Florian Taut, 1880-1938)は、ドイツの建築家で、3年間(1933-1936)日本に滞在(亡命)し、桂離宮を高く評価したことでよく知られています。

2階では、ジードルング(集合住宅)[実用]、アルプス建築[理念]から桂離宮[実用と理念の融合]への思想的展開が展示されています。3階は、タウトが友人や家族に宛てた手紙、4階は、日本での工芸作品と日向邸。さらに、地下では、タウトの撮った写真の展示もありました。

たまたま、学芸員による展示解説の時間に居合わせたので、自分で見ていただけでは気がつかないことも色々分かり、大変参考になりました。

2階の展示壁は、実際のジードルングの塗装に使われている塗料をドイツより取り寄せて、建物と同じ様に塗り分け彩色されていたり、床のカーペットも実際の建物のものと同じデザインのものをわざわざ制作したとのことで、非常に凝った展示構成になっています。

1910年代に建てられたジードルングは現在も使用され、修復も進められていて、世界遺産への登録が申請されているそうです。日本の同潤会アパートの扱われ方と比較すると雲泥の差ですね。ジードルングは、豊かに彩色されていますが、低価格の規格品を使いながら個性を作り出すための工夫でもあったそうです。

アルプス建築では、最近発見された原画が3点展示されています。出版された印刷と比較すると、印象がずいぶん違い、タウト本来の理念がより明確に伝わってくる感じです。

また、10年以上前(1994年だったらしい)に行ったセゾン美術館のタウト展の記憶も少し蘇りました。アルプス建築の印象が非常に強烈だったことを思い出しました。

3階の、タウトの手紙は、縦長の和紙に筆書き(ドイツ語ですが)、時に絵も交えながらのユーモアもある面白いものですが、翻訳と見比べながら見ていくのはチョッと辛い。

あまり広くないワタリウムですが、予想以上に混んでいたのと、解説の文章が多いため、結構くたびれてしまいましたが、タウトの多様な面を見ることが出来ました。

会期も残り少ないのですが、見て損はしないと思いますので、興味のわいた方はお出かけください。