福間良明「「戦争体験」の戦後史―世代・教養・イデオロギー」 ― 2009/12/24 07:00:00
福間良明「「戦争体験」の戦後史―世代・教養・イデオロギー」中公新書(2009年)
主に「きけわだつみのこえ」東大協同組合出版会(1949年)の、戦後史における捉え方の変遷を、「教養主義、反教養主義」、「戦前派、戦中派、戦後派、戦無派」、さらに「インテリ戦没学生、戦没農民兵」それぞれの対立軸に焦点を合わせて分析整理したものです。
個人的なことを言えば、1950年代後半生まれの私が、若いころに感じた「きけわだつみのこえ」に対する違和感も、本書の分析により納得がいきました。
リアルに戦争を体験した世代(戦中世代)は、自身の戦前期の思想歴と戦争体験、戦争体験を話す際の内的葛藤、戦後の戦争体験の受容のされ方、その話したことの政治的利用のされ方について強い違和感を感じていた。詩人石井吉郎が、そのシベリヤ体験を語るのに長期間にわたり、抽象的な詩という表現から行わざるを得なかったこと、さらにその後精神的危機から社会生活に破たんを来たすほど酒量を増やしていったことなど、思うと、僅かながらも困難さと葛藤の激しさを想像できるかも知れません。
被害者として戦地に連れ出されたが同時に、侵略者として敵兵、一般市民を殺傷、さらには、虐殺やレイプを軍務として平然と率先しておこなった(可能性のある)加害者としての自分。戦争、忠君愛国を露ほども疑わず世間に同調した自分。幾ばくかの不合理、非人間性を感じていながら声に出せなかった自分。
この戦争で死んでいった人たちの死は、「無意味な死」であり「犬死」であったことを認め、、死んでいった人たちに報いるとは、その人たちの誠実を受け止めかつ人間として負うべき責任を追及することで、我々が引き受けていくべきことだ。
少なくとも、死んでいった人たちの「忠君愛国の誠実」だけを取り出して、「神」として靖国に祀ろうなどという考えは、その死者達は加害者としての責任を自ら負うことができる「人格」であるということを無視した、2度目の死を強制することとなるのだ。
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