内田樹「下流志向」(2009年) ― 2009/09/01 04:38:37
内田樹「下流志向」講談社文庫(2009年)
2007年の同名ベストセラーの文庫化です。「あとがき」以外は変更ありません。
著者は「子供たちが学ばなくなった」「若者たちが働くなった」とう現在の問題は、子供や若者が、学ぶこと、働くことを、市場的な等価交換としてとらえるようになったことが原因であると、考えています。
かつての子供たちは、生まれて最初の経済体験は家事労働であり、共同体の互酬関係の中で自己実現を体験した。一方、80年代以降の子供達は、生まれて最初の経済体験は消費であり、市場的等価交換を原理としたシステムの上で、「全能の消費者」として現われてしまう。
この子供たちは学ぶことや働くことを、市場的等価交換を原理にもとづいて消費しようとする。ここで子供たちは「学習はどんな意味があるのか?何の役に立つのか?」という疑問を発することになります。市場の原理に従って、即時に収益を要求するわけです。しかし実は「学び」とは経時的なものであり即自的に収益を与えるものではないわけです。当初は意味が分からないものを学び続けることにより、その意味のを知り、一般的な問題解決能力として蓄積されるものであったはずです。
つまり、現代の子供らに学ぶことの収益性、有用性が、納得させられなければ、彼らはそのバーゲニングパワーとして「秩序ある授業」を破壊する行為をおこなう訳です。すなわち学級崩壊。この「秩序の破壊」は、かつての世代の「破壊すべき旧体制的秩序に対する破壊」とは異なります。子供達は、市場交換のバーゲニングのために「秩序破壊」をおこなうにすぎない訳です。その時「学ぶこと」は、直ちに収益性を生まない、すなわち市場価値の無いものであり、その故「秩序破壊」はバーゲニングのための通常の行為となったのです。
こうした行為は、子供の学力を低下させます。さらに、旧来からの学歴システムも大きなほころびを見せています。大学に入れば安定したホワイトカラー職業につけるという安心感は霧消しました。ましてや、高卒の職場として提供されていた、多くの技能職は機械に取って代わられ、販売職は、マニュアル化された非正規労働者に取って代わられています。多くの人にとって、「学ぶこと」「働くこと」は市場交換として割に合わなくなっているのです。かれらは「授業の秩序を破壊し」「労働市場に参入しない」ことでこの現状に適応します。この適応は、明らかに彼らの経済的地位を自ら低下させることになります。こうして、「学ぶこと」「働くこと」に価値を見いだせない親の子供たちも「学ぶこと」「働くこと」に価値を見いだせず、さらに経済的地位を低下させることになります。貧困の再生産サイクルの完成です。
ところが、僅かですが、旧来からの学歴システムが維持されている部分があります。ここでは、「学ぶこと」「働くこと」は自明のことであり、だれも意味など問いません。大人たちは、長期的には経済的利益となるサイクルが生きていることを知っているからです。
こうして、多数の経済的弱者と少数の経済的強者を生むのが現在の社会システム「格差社会」であると、著者は考えています。
以下、評者の考えです。なぜ現代の子供は「学ばなくなり」若者は「働かなくなった」のかとうことを考える上で著者の「仮設」は興味深いものです。そのような実態が大きな影響を持っていることに同意できます。しかし、その一方で、昔から、「学ぶこと」「働くこと」に意味があるからこそ、「旧体制の下の秩序を破壊する」「働かない(自給自足)というオルタナティブな生活」が、新しい思想、価値を生みだしてきたのも事実です。教育、就業の経済システムは、多くの子供や若者に対して、「学ぶ」価値「働く」価値、を再構築する必要があるのはもちろん、システムの状態を変動させるノイズとしての「学ばない」「働かない」を包含していく、二律背反を実現していかねばなりません。
「渡邊白泉全句集」(その1) ― 2009/09/04 03:57:21
「渡邊白泉全句集」沖積舎(2005年)
昭和十三年
支那兵の胸厚く足太き戦死
支那兵の靴を地に觸れし戦死
支那兵の屈み童子の如き戦死
支那兵の鼻血を長く曳きし戦死
支那兵の顔圓く足伸べし戦死
支那兵が草山を抱き戦死せり
支那兵が樹に抱き纏ひ戦死せり
支那兵が鎖を握り戦死せり
支那兵が口を動かして戦死せり
支那兵が牛羊共と戦死せり
昭和十三年の渡邊白泉は三省堂に勤務中の二十五歳。当時発表はされなかった作品のようです。実際に召集されてはいないので、映画、写真、伝聞などから強い印象を受けつくられたものでしょうか。
「渡邊白泉全句集」(その2) ― 2009/09/05 03:01:43
「渡邊白泉全句集」沖積舎(2005年)
昭和十三年
赤く蒼く黄色く黒く戦死せり
戦死せり地に草木を高く残し
薄暗き大腿を立て戦死せり
走り行き横を振り向きて戦死せり
眼をひらき地に腹這ひて戦死せり
鼻を顎を膝を天空へ向けし戦死
金色の喇叭を胸に抱きし戦死
中空へ駆け去るごとく伏し戦死
深々と草背負ひたる戦死なり
同じく昭和十三年。昨日に同様「戦死」についての句。俳句なんて全く柄でもないんですが、俳句でこんなこともできるのかと衝撃をうけます。
「渡邊白泉全句集」(その3) ― 2009/09/06 05:05:00
「渡邊白泉全句集」沖積舎(2005年)
昭和十三年
銃後と言ふ不思議な街を岡で見た(☆)
繃帯をまかれ巨大な兵となる(☆)
戦場へ手ゆき足ゆき胴ゆけり
戦場へ兵隊の糞赤し赤し
戦場へ膨らみ縮まりゆけりけり
戦場へ一本の列が生き動く
赤の寡婦黄の寡婦青の寡婦寡婦寡婦
昭和十四年憲兵の前ですべって:ころんぢやつた(☆)
戦争が廊下の奥に立ってゐた(☆)
大學を出でて四年の飯はあをし
朝曇激しくゴオゴリをほめ默る
昭和十三年、十四年の句。一部有名な句を選んで見ました。
(☆)は結構有名な句ですね。
【年譜】(一部)
大正2年(1913年)東京市赤坂区青山に出生。本名威徳。
昭和4年(1929年)『子規俳話』を読み、俳句に興味を持つ。
昭和8年(1933年)慶応義塾大学経済学部に進学。水原秋桜子『俳句の本質』に啓発される。『馬酔木』に投句をはじめる。
昭和11年(1936年)慶応義塾大学経済学部卒業。四月、株式会社三省堂に入社。引き続き『句と評論』にあって、自選作品の発表および地蔵尊選への投句を続行。評論にもさらなる活躍を示した。西東三鬼との交わり繁くなる。
昭和14年(1939年)西東三鬼の斡旋により、『京大俳句』二月号より同誌の会員となる。
昭和15年(1940年)二月に、『京大俳句』主要会員に対してなされた、治安維持法違反の嫌疑による第一次検挙に続く、第二次検挙に遭い、五月、京都府警に連行される。九月、起訴猶予。執筆禁止を言い渡されて帰宅。
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