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プラトーノフ「プラトーノフ作品集」2009/12/06 05:00:00


プラトーノフ「プラトーノフ作品集」岩波文庫(1992年)

アンドレイ・プラトーノウィチ・プラトーノフ(1899-1951)。モスクワ近郊に生まれ、鉄道技術専門学校生の時に、赤軍に参加します。ソヴィエト政権下では技師として働きながら文学活動を続けました。1920年代に発表した一連の作品(「土台穴」(1929-1930年)を含む)が「反社会主義的」とされて活動の場を失ってしまいました。

その後、1934年にソ連作家同盟代表団の一員として、中央アジアトルクメン共和国に派遣されます。このとき砂漠地帯に暮らす遊牧民のあまりにも貧しい生活を見聞し、「粘土砂漠(タクイル)」(1934年)「ジャン」(執筆はこの時代だが発表は1966年)を著します。本書に掲載された、この2作品が非常に面白いですね。砂漠の自然の猛威の前で常に生存の危機にさらされている人間は感情や希望という感覚をほとんど失ない、ただ生命を持続させるだけの生活を送っています。そこに少数民族の社会主義化を使命として派遣される主人公ですが、砂漠の自然の中で生きてゆく意味を問われることになります。

残りは革命後の生活を描いたものですが、日常生活の空虚感と人の心の移り気、気まぐれが描き出す悲しい物語になっています。本書最後の掲載作「帰還」(1947年)は、4年振りに対ドイツ戦線から故郷に帰還した兵士が、妻の不貞と心の屈折を知り、疎外感を抱いて兵士も家族も傷つきます。いたたまれなくなった兵士は列車に乗って故郷を後にしようとしますが、列車を必死に追ってくる、子供のたちの姿を見て、思いとどまり、兵士は列車から飛びをります。苦いハッピーエンドの予感で終わります。これは、赤軍兵士の妻の不貞を扱った訳ですから、非難轟々を受け、プラトーノフはさらに文壇から遠ざかることになります。

ペレストロイカ後になって、初めて全ての作品が広く公開されるようになった、我々から見れば新しい作家ですが、大変興味を引きよせる作家だと思います。




pp.279-325にプラトーノフ論

ドストエフスキー「死の家の記録」2009/12/07 05:00:00


ドストエフスキー「死の家の記録」新潮文庫(1973年)

「死の家の記録」は、1860年~1862年に検閲による発表の遅れをともなって完成しました。妻殺しの罪に問われた貴族アレクサンドル・ペトローヴィチ・ゴリャンチコフの10年間の服役生活の手記という体裁をとった作品ですが、その内容は、1850年~1854年の政治犯ドストエフスキーの服役生活を記録したものと言ってもよいものです。

獄舎の環境は劣悪で、夜になると閉ざされる夜の獄舎は、シラミ、ノミの暴れる地獄、まれな入浴も、ドロドロに汚れた風呂場は、オドロオドロシイ様相を見せます。また、貴族でないものには、笞刑があたえらるなど非人道的な刑罰が続けられています。さらに、風紀も乱れていて、賭博や飲酒が黙認され、非公認の商売も行われていて、囚人には貧富の差が生じています。囚人は大部分がロシア人の農民ですが、タタール人・コーカサス人(イスラム教徒)、ユダヤ人、ポーランド人貴族、ロシア貴族等も含まれます。貴族は政治犯が中心ですが、一般犯も含まれています。

貴族達は、農民たちからは異なる世界の人間として、その仲間には入れてもらえません。しかし、一方で、経済的利益を目的とせず主人公の世話をやきたがる農民たちもいます。実に様々な個性(場所が場所なので素朴な人間の本性)を発揮する人々が多く、ドストエフスキーの人間理解について大きな転機になったものと思われます。

理想主義的社会主義者であったドストエフスキーが民衆(農民)と接して衝撃をうけ、人間理解の転機になったというのは、理想主義的社会主義が民衆の実情に対して無力であると感じたということなのでしょう。 ジョン・リード「世界をゆるがせた十日間」のなかに、元革命家と称する学生が、赤衛軍兵士に、革命理論を講釈し、ボリシェヴィキを批判するのですが、赤衛軍兵士はいささか愚鈍に「自分たちに難しいことは分からない。労働者兵士農民の政府の指示っているだけだ。」という、かみ合わない会話にも感じられるように、理想主義的社会主義がインテリ層だけに上滑りしていた状況は変わっていなかったようです。

ドストエフスキーのシベリアでの服役が1850年~1854年、チェーホフのサハリン島視察は1890年の事ですから、この間に40年くらいの時代的開きがあります。この二つを読み比べてみると、流刑囚の待遇はこの間あまり改善されているようには思えません。20世紀のシベリア収容所にいたるまで、人権思想、人道主義が普及することはなかったんでしょうか?

ただし、宗教の自由はかなり厳格に守られており、ユダヤ教徒、イスラム教徒ともその信仰生活を尊重されています。



J・S・ミル「代議制統治論 」2009/12/08 05:00:00


J・S・ミル「代議制統治論 」岩波文庫(1997年)

ミルは代議制統治形態が最良の統治形態だとしていますが、完全普通選挙が実施された場合、多数派、即ち、労働者階級による階級立法、階級支配を恐れています。もっと一般的には、多数者による少数者への横暴を恐れています。普通選挙実施前の状況で、ミルの憂慮も故えないものとはいえないかもしれませんが、既に完全普通選挙に近付いていたアメリカは、階級対立を生むことなく議会を運営していきます。ルイス・ハート「アメリカ自由主義の伝統」講談社学術文庫(1994年) で記されたように、アメリカでは労働者とブルジョアジーの対立はおきませんでした。一方イギリスでは、自由党が衰退し、保守党と労働党の2大政党制が定着します。しかしイギリスでも一方的な階級立法がおこなわれたわけではありません。米欧では、ミルの心配は杞憂に終わったようです。

この多数派による横暴、階級立法を防ぐ手段として、知識階級に複数投票権を認めようという提案をしています。まあ、今となっては、保守派の杞憂とエリート主義のなせる妄想だったことになりますが。一方女性の参政権については強く求めています。妻と義娘も政治的に主張をもった女性であり、ミルもそれを高く評価しており、成人の半分が選挙権から隔離されたような状態には我慢できなかったようです。

しかし、階級対立という形ではなくても、多数派による少数派に対する横暴は、多くに国で現実となり、現実の暴力を生んできたのもたしかです。ミルの先見性には敬意を表したいと思います。

2院制については、英国のような、選挙によって選ばれる庶民院と学識経験者が指名される貴族院が理想と考えていたようです。アメリカの場合も、人口に比例して選出される下院と州の代表として選出される上院の違いを、有意義なものとしていました。

現代日本の衆院、参院の2院制は、上記の条件には当てはまっておらず、少なくともミルの視点からすると2院制の存在意義が問われます。やはり日本における議会改革も避けて通るべきではないでしょう。

歴史的限界もみられるミルの「代議制統治論」ですが、古典を紐解いて、現在の状況を、因って帰し方を振り返り、今後の議論に必要な知識を得ることが可能だと思います。



福間良明「「戦争体験」の戦後史―世代・教養・イデオロギー」2009/12/24 07:00:00


福間良明「「戦争体験」の戦後史―世代・教養・イデオロギー」中公新書(2009年)

主に「きけわだつみのこえ」東大協同組合出版会(1949年)の、戦後史における捉え方の変遷を、「教養主義、反教養主義」、「戦前派、戦中派、戦後派、戦無派」、さらに「インテリ戦没学生、戦没農民兵」それぞれの対立軸に焦点を合わせて分析整理したものです。

個人的なことを言えば、1950年代後半生まれの私が、若いころに感じた「きけわだつみのこえ」に対する違和感も、本書の分析により納得がいきました。

リアルに戦争を体験した世代(戦中世代)は、自身の戦前期の思想歴と戦争体験、戦争体験を話す際の内的葛藤、戦後の戦争体験の受容のされ方、その話したことの政治的利用のされ方について強い違和感を感じていた。詩人石井吉郎が、そのシベリヤ体験を語るのに長期間にわたり、抽象的な詩という表現から行わざるを得なかったこと、さらにその後精神的危機から社会生活に破たんを来たすほど酒量を増やしていったことなど、思うと、僅かながらも困難さと葛藤の激しさを想像できるかも知れません。

被害者として戦地に連れ出されたが同時に、侵略者として敵兵、一般市民を殺傷、さらには、虐殺やレイプを軍務として平然と率先しておこなった(可能性のある)加害者としての自分。戦争、忠君愛国を露ほども疑わず世間に同調した自分。幾ばくかの不合理、非人間性を感じていながら声に出せなかった自分。

この戦争で死んでいった人たちの死は、「無意味な死」であり「犬死」であったことを認め、、死んでいった人たちに報いるとは、その人たちの誠実を受け止めかつ人間として負うべき責任を追及することで、我々が引き受けていくべきことだ。

少なくとも、死んでいった人たちの「忠君愛国の誠実」だけを取り出して、「神」として靖国に祀ろうなどという考えは、その死者達は加害者としての責任を自ら負うことができる「人格」であるということを無視した、2度目の死を強制することとなるのだ。



フィリップ・ナイトリー「戦争報道の内幕―隠された真実」2009/12/29 06:01:57


フィリップ・ナイトリー「戦争報道の内幕―隠された真実」,中公文庫(2004年)

クリミア戦争から、ベトナム戦争までの、戦争報道の実態を暴いたノンフィクション。第一次世界大戦、第二次世界大戦により報道統制の技術はピークを迎えた。ベトナム戦争以後、西側先進国では直接的な検閲は減っているが、記者自身の中立性の維持―特に、前線で明らかに攻撃対象となりえるジャーナリストにとって、そして常時自軍と行動を共にことによる意識の変化、愛国意識の高揚、そして自己検閲という状況に変わりはない。つねに、軍隊は作戦の最良の部分の報道にたいしてのみ便宜を与える。

米軍発表のTVゲームの様なピンポイント爆撃映像は、戦争の実態の何も伝えていない。湾岸戦争では、西側メディアの拠点としてたホテルは米軍戦車の砲撃を受け、ジャーナリストに死傷者をだした。アルジャジーラTVは度々米軍の攻撃をうけた。

どのような戦争においても、必ず「両軍」ともに残虐行為をおこなう。敵の残虐行為を伝えて、正戦論・好戦論を高揚させるか、味方の残虐行為を伝えて、無意味な、犯罪的な戦争を知らしめるか。ジャーナリズムは如何様にも戦争をコントロールできる。

困難であるが故に、戦争が有るところジャーナリストがいなければならない。イラクで殺害された橋田信介さん、小川功太郎さん、ミヤンマーの反政府デモ取材中に射殺された長井健司さん。少なくとも彼等の報道したもの、しようとしていたものについてもっと知らなければならない。