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ドストエフスキー「死の家の記録」2009/12/07 05:00:00


ドストエフスキー「死の家の記録」新潮文庫(1973年)

「死の家の記録」は、1860年~1862年に検閲による発表の遅れをともなって完成しました。妻殺しの罪に問われた貴族アレクサンドル・ペトローヴィチ・ゴリャンチコフの10年間の服役生活の手記という体裁をとった作品ですが、その内容は、1850年~1854年の政治犯ドストエフスキーの服役生活を記録したものと言ってもよいものです。

獄舎の環境は劣悪で、夜になると閉ざされる夜の獄舎は、シラミ、ノミの暴れる地獄、まれな入浴も、ドロドロに汚れた風呂場は、オドロオドロシイ様相を見せます。また、貴族でないものには、笞刑があたえらるなど非人道的な刑罰が続けられています。さらに、風紀も乱れていて、賭博や飲酒が黙認され、非公認の商売も行われていて、囚人には貧富の差が生じています。囚人は大部分がロシア人の農民ですが、タタール人・コーカサス人(イスラム教徒)、ユダヤ人、ポーランド人貴族、ロシア貴族等も含まれます。貴族は政治犯が中心ですが、一般犯も含まれています。

貴族達は、農民たちからは異なる世界の人間として、その仲間には入れてもらえません。しかし、一方で、経済的利益を目的とせず主人公の世話をやきたがる農民たちもいます。実に様々な個性(場所が場所なので素朴な人間の本性)を発揮する人々が多く、ドストエフスキーの人間理解について大きな転機になったものと思われます。

理想主義的社会主義者であったドストエフスキーが民衆(農民)と接して衝撃をうけ、人間理解の転機になったというのは、理想主義的社会主義が民衆の実情に対して無力であると感じたということなのでしょう。 ジョン・リード「世界をゆるがせた十日間」のなかに、元革命家と称する学生が、赤衛軍兵士に、革命理論を講釈し、ボリシェヴィキを批判するのですが、赤衛軍兵士はいささか愚鈍に「自分たちに難しいことは分からない。労働者兵士農民の政府の指示っているだけだ。」という、かみ合わない会話にも感じられるように、理想主義的社会主義がインテリ層だけに上滑りしていた状況は変わっていなかったようです。

ドストエフスキーのシベリアでの服役が1850年~1854年、チェーホフのサハリン島視察は1890年の事ですから、この間に40年くらいの時代的開きがあります。この二つを読み比べてみると、流刑囚の待遇はこの間あまり改善されているようには思えません。20世紀のシベリア収容所にいたるまで、人権思想、人道主義が普及することはなかったんでしょうか?

ただし、宗教の自由はかなり厳格に守られており、ユダヤ教徒、イスラム教徒ともその信仰生活を尊重されています。



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