Google
 

半藤一利「昭和史 1926-1945」2010/05/05 06:00:56


昭和史 戦後篇 1945-1989 (平凡社ライブラリー)

講演会のスタイルでまとめられた「昭和史」の戦後編。ストーリーというより、目に付いた事実・記述をランダムに抜き書きします。

昭和20年秋(渋谷駅のガード下、作家山田風太郎の日記より)「赤尾敏大獅子吼、軍閥打倒!(p.91)」(豆短の赤尾先生ではありませんよ。)戦後一貫して街宣車でアジテーションを行っていた、あの右翼の赤尾敏先生です。戦後すぐに活動を開始したんですね。

昭和21年1月24日幣原首相とマッカーサーの会談開催。幣原は昭和3年(1928)不戦条約の日本全権でした。不戦条約は結局日本でも批准されました。国際法上は現在も有効だそうです。この不戦条約は、条文を読むと憲法9条によく似ています。ほとんどそっくりです。幣原の秘書が、その日の、幣原とマッカーサーの会見の記録をのこしています。「(幣原は)かねて考えた世界中が戦力を持たないという理想論を始め、戦争を世界中がしなくなるようになるには、戦争を放棄するということ以外はないと考えると話し出したところが、マッカーサーは急に立ち上がって両手で手を握り、涙を目にいっぱいためて、その通りだといいだしたので、幣原は一寸びっくりした。しかしマッカーサーも、長い悲惨な戦争を見続けているのだから、身にしみて戦争はいやだと思っていたのだろう。(p.160)」となっています。マッカーサー側の証言はむしろマッカーサーから幣原に提案したことになっているようですが、マッカーサーの発言は一貫していないのが難点です。第9条は、その後ののGHQサイドの原案で具体化したものかもしれませんが、いずれにしろ文面から見て不戦条約は基本的な出典となっているのは疑問の余地はありません。すでに日本が批准済みの国際法を、憲法にとりいれたということになります。

GHQ草案にバタバタする内閣ですが、昭和21年2月22日、「(幣原)首相が(天皇に)経緯とGHQ草案の内容、極端にいえば「天皇は象徴」「主権在民」「戦争放棄」の三原則を伝えると、天皇は―幣原平和財団編「幣原喜重郎」によれば―次にように言われました。「最も徹底的な改革をするがよい。たとえ天皇自身がら政治的機能のすべてを剥奪するとほどのものであっても、全面的に支持する」(p.197)」。さらに「もう一説に、出典は不明なのですが、こうきっぱり言ったとも伝わっています。「自分は象徴でいいと思う」」。内閣が、国体護持だの君臣一如だのと結論の出ない議論をしていたときに、天皇の意見で、一転GHQ案受け入れですから、まさに第二の「聖断(p.197)」。当時の政治家の統治能力の低さが窺われます。陸軍海軍に手もなくひねられるのは当然か。

極東軍事裁判のA級戦犯の裁判での投票内容(推定)は以下の表の通り。(p.243)

11判事投票内容推定(P.243)
被告荒木大島木戸嶋田●広田●東条●土肥原●松井●武藤●板垣●木村
米国判事×××××××××
英国判事×××××××××××
中国判事×××××××××××
フィリピン判事×××××××××××
ニュージーランド判事×××××××××××
カナダ判事××××××××
オランダ判事×××××××
オーストラリア判事○○
ソ連判事○○
フランス判事○○
インド判事○○
○:死刑反対、×:死刑賛成

上の表を見てすぐ気がつくのは、英国、中国(当然蒋介石政府)、フィリピン、ニュージーランドが全ての被告の死刑に賛成していることと、反対に、オーストラリア、ソ連、フランス、インドは全ての被告の死刑に反対していること(オーストラリア、ソ連は天皇戦犯では強硬派と考えられていますが死刑には反対していた)です。結局、被告が死刑になったかどうかは、米国、カナダ、オランダ3カ国のうち2カ国以上が死刑に賛成か否かで決まりました。

松井(上海派遣軍司令官)は南京事件、板垣征四郎(第7方面軍(シンガポール)司令官)はシンガポール華僑虐殺事件、武藤章(第14方面軍(フィリピン)参謀長)はマニラ大虐殺、木村(ビルマ派遣軍司令官)は泰面鉄道での捕虜虐待、土肥原(在満特務機関長)は満州での残虐行為といったように、絞首刑になった7人の内の5人はA級戦犯ですが、実質的にはB・C級戦犯の罪状を前提にして死刑求刑にされたように見える(もちろん裁判上おかしい)。いずれも、米国、英国、中国(当然蒋介石政府)、フィリピン、ニュージーランド、カナダ、オランダが全て死刑に賛成、オーストラリア、ソ連、フランス、インドが全て死刑に反対というのにも符合するというのが著者の意見。結構説得力があるのではないでしょうか。一方、東条(首相)と広田(外相)は、本来のA級戦犯の罪状で裁かれたと言えるでしょう。東条は、米国、英国、中国、フィリピン、ニュージーランド、カナダ、オランダの七票、一方文民の広田(外相)は、米国、英国、中国、フィリピン、ニュージーランド、カナダの賛成とオランダ、オーストラリア、ソ連、フランス、インドの反対に分かれ、一票差で死刑となりました。アメリカとカナダが何で文民の死刑に賛成したのだろうか?著者は、自殺した近衛(首相)の身代わりに、軍人1人(東条)、文民1人(広田)に責任を負わせたのではないかと見ているようです。

他にも、天皇とマッカーサーの会見(随分と具体的な政治外交情勢について話し合っています)だとか、非武装をめぐる吉田茂と米国側のやり取りとか面白い話がいっぱいありますが、今日はこれくらいに。



山田昌弘「少子社会日本―もうひとつの格差のゆくえ」2010/04/29 04:23:32


山田昌弘「少子社会日本―もうひとつの格差のゆくえ」岩波新書(2007年)

これは少子化の要因を良くとらえていると思う。著者の言うとおり「仕事をしたいから女性は結婚しない」という俗説は疑問である。少なくとも自分の周りを見ていて違和感がある。「仕事を続けたい」と思うようなキャリアの仕事に就いている女性は少ない。ほとんどの女性は本人の意思に関係なく補助的な仕事にしか就くことができてない。

結婚して子供を産むことが経済的に維持可能であると考えられないから少子化が進む。普通、経済的に立ち行かない状況が予想される中で、結婚したり子供をつくったりしたら、「無計画」と言われる。

身も蓋もないけれど「夫の育児、家事参加について多くの調査がなされている。そして、夫の家事、育児参加を増やす最大の要因は、妻の「収入」であることが分かっている。妻の収入が高くなると、夫の家事、育児時間が増え、妻の収入が低ければ夫は、家事、育児を手伝わない傾向が見られる」(p.161)収入というインセンティブが無ければ、誰も家事、育児という労働に参加しない。



事業仕分け(平成22年4〜5月)2010/04/27 05:02:24

行政刷新会議:事業仕分け (平成22年4〜5月)

さて、第2段の仕分けが始まりました。とりあえずの「魔の巣窟」はUR都市機構ということみたいですが、研究機関型の独立行政法人も多くが問題になっています。

研究開発型の独立行政法人の仕分けと言えば、第一回における、スーパーコンピュータ、スプリング8、GXロケットなどがバッサリ削られて、「何故世界で2番じゃいけないんですか」の名言とともに、強く記憶に残っています。結構大騒ぎになっていましたが、まず、スーパコンピュータの開発は参加企業の取下げやら採用方式の迷走やらがあって、既にこれじゃまずい、ということが分かっていた事業。GXロケットも自民政権時代に筋が悪そうだということでほぼ廃止が決まっていたのを一部議員の主張でなんとか首の皮一枚をつないでいただけ。もともと上手くいっていない事業をひっぱり出してきて、「駄目じゃないか」と政治家に言わせ、筋が悪いのをを知っている官僚がやる気なさそうにおざなりの回答をする。というようにしか見れませんでした。もちろん反論はあるだろうが、もともと廃止論または大幅な見直し論がでていた事業をその通りに仕分けただけに見えました。そうじゃなければ、答弁役の官僚のやる気の無さは理解不能です。


で、今回の第2回の仕分けには、多くの独立行政法人の研究開発機関が含まれている。さあ、これをバッサリということなのか?と思ったらそうでも無くて、運営の部分の無駄を指摘されただけという印象です。

ただし、これらの独法研究機関、すなわち各官庁の研究機関をそのまま引き摺っているのだから、無駄や重複は多いですね。もちろん各省庁には、固有のニーズがあるので「他ではやれない」と主張するんでしょうが。

独立行政法人の研究機関、所管官庁の配下のまま縦割り意識で研究も管理も運用されているようです。そこで、昔から何となく考えているんですが、これらの研究機関は基本的に全て、文科省管轄の「大学共同利用機関」に移管しまえば良いのではないのか。既に多くの研究機関は連携大学院として研究機能に加え教育機能ももっている。より人材の交流を活発化し各種大型特殊設備等の共同利用などのメリットもあるのではないか。とくに旧科技庁系の理研など直ちにでも「大学共同機関」に移行すべきではないのか。研究内容からいっても、そのまま総合研究大学院大学の重要部門として生きてくるであろう。管理の問題は残るが、国立大学法人と同列の管理下に置かれるので、国立大学法人全体の管理統制を強化すればよい(私立大学も含めた監査組織など)。


他省庁の管轄する独法研究機関でも、連携大学院制度を採っている機関は多く、大学共同利用機関への移管は難しくないだろう。一部の独法では、研究ではなくより実務的な機能も有するところがあるようだが、それは分離して、最小限の独法、または民営化。または、大学の出資する機関による。

今回は入っていないようですが、財務省管轄の酒類総合研究所は 廃止の危機にあるみたいですけど、いっそのこと連携大学院を結んでいる広島大学に吸収されその研究所となってもいいんではないでしょうか。山梨大学にもワイン科学研究センターというのがあるのでワインと日本酒でバランスも良い(?)。

基本的に研究部門を移し、管理部門を統合合理化して(物理的に場所が離れているのが難点だが、近所の国立大内に引越すとかすれば良いかも。各省庁として引き続きい研究が必要だということがあれば、各省庁から委託講座として、予算を援助し、研究を続けれ良い。異常に縦割りが進んだ研究機関を、単一の組織のなかに移せれば、管理費用の削減や、ニーズの変化に応じた研究分野の変化、組織の統合等も容易になるのではないだろうか。文科省焼け太りの大反対が起きそうではあるが、それなら、大学に対する文科省の権限を弱めれば良いのではないだろうか。

一見逆っこうする話であるが、JAXAみたいにビジネス的な事業と、研究開発が並列している場合、元の様に、再分割することも考えれる。このJAXAへの統合により旧宇宙研の研究自由度は著しく劣化したように思えるからである。そもそも、旧宇宙開発事業団と旧宇宙研の統合は、「ロケットを別々に作っているのは無駄だ」というひじょうに「「仕分け的論理」で、技術的な意味や研究目的を無視して統合した結果だと思う。もちろん、分離後も両組織の共同は行われるべきだが、一つの組織にする理由はない。米国のNASAも科学研究部門はCalTechなどの大学が担っていたのではなかったか(ここ記憶曖昧なので間違ってるかも)。「宇宙庁」なんて間抜けなことをするより、研究開発戦略を真面目に考えてほしい。蛇足だが、有人計画には反対をする。実用衛星でも、科学研究でも、安全性という高いコストをかけて有人計画を立てる意味はない。現行の宇宙ステーションも直ちに廃棄しったって良いと思う。

というわけで、以前から考えてきたことを、垂れ流してみました。反論は色々あるでしょうが、少なくとも研究者のモチベーションを落とすことなく、大学院生を加えたスタッフでより活発な研究ができ、海外から研究者、留学生を受け入れることも今まで以上にできると期待したい。

ハーバード白熱教室(その2)2010/04/24 03:32:41


ハーバード白熱教室(NHKのサイト)

「ハーバード白熱教室」の第1回の再放送を見ました。道徳と功利主義の矛盾についての討論と言えるでしょうか。我々は無自覚に功利主義を前提にしていることが分かります。

学生の発言を聞いていて思ったのは、ハーバードの学生が優れた意見を持っているのではなく、自分の考えを言葉にする努力をしていることです。自分の考えを言葉にすることにより、論理の不十分さや異なる視点に気がつくことができる。

教授も学生の意見を引き出しながら授業を進めていくのが上手いですが、ロースクールやビジネスクールも含めてアメリカの大学の良いところだと思います。日本でやろうとすると学生が意見を言えないことより、教授が上手く授業を進められない事が問題でしょうね。


あなたは時速100kmのスピードで走っている車を運転しているが、ブレーキが壊れていることに気付きました。前方には5人の人がいて、このまま直進すれば間違いなく5人とも亡くなります。横道にそれれば1人の労働者を巻き添えにするだけですむ。あなたならどうしますか?サンデル教授は、架空のシナリオをもとにしたこの質問で授業を始める。大半の学生は5人を救うために1人を殺すことを選ぶ。しかし、サンデル教授はさらに同様の難問を繰り出し、学生が自らの解答を弁護していくうちに、私たちの道徳的な根拠は、多くの場合矛盾しており、そして、何が正しくて、何が間違っているのかという問題は必ずしもはっきりと白黒つけられるものではないことを明らかにしていく。
Lecture1:犠牲になる命を選べるか


サンデル教授は、19世紀の有名な訴訟事件「ヨットのミニョネット号の遭難事件」から授業を始める。それは、19日間、海上を遭難の後、船長が、乗客が生き残ることができるように、一番弱い給仕の少年を殺害し、その人肉を食べて生存した事件だった。君たちが陪審員だと想像して欲しい。彼らがしたことは道徳的に許容できると考えるだろうか?この事例を元に、哲学者、ジェレミー・ベンサムの功利主義「最大多数の最大幸福」についての議論を戦わせていく。
Lecture2:サバイバルのための殺人

「アスペルガー症候群 活躍の場を求めて」『クローズアップ現在』(NHK総合)2010/04/22 05:12:55


「アスペルガー症候群 活躍の場を求めて」『クローズアップ現在』(NHK総合)、2010年 4月21日(水)放送

NHKで4月21日に放送された「アスペルガー症候群 活躍の場を求めて」を視ての感想。

以下、NHKサイトから引用を開始します。

引きこもり、うつ病など20~40代の間で深刻化する問題の背後の多くに、実はアスペルガー症候群が潜んでいることがわかってきた。アスペルガー症候群は脳の機能障害で、知的障害はないが他人の気持ちを推し量ったり、暗黙のルールを理解できないため、職場では「変わった人」と見られ、孤立を深めて社会からドロップアウトしていく人が少なくない。一方でIT技術など特定の分野において秀でた能力を持っている人も多く、周囲が障害を理解し、対応を工夫すれば、目覚しい活躍をすることも分かってきた。企業でも今、アスペルガー症候群の人を積極的に採用し、その力を活かそうという取り組みが始まっている。“アスペルガー症候群の人”たちが社会で活躍するためには何が必要なのか、当事者と雇用する側双方の取材を通して考える。
「アスペルガー症候群 活躍の場を求めて」『クロー自アップ現在』(NHK総合)、2010年 4月21日(水)放送

番組中のアスペルガー症候群の人達にはシンパシーを感じてしまう私である。「社会性の高い人とコンビを組んで仕事をしたい」という希望もよく理解できる。そこで、「自閉症スペクトラム指数(Autism-Spectrum Quotient: AQ)自己診断」というのを見つけたのでやってみた。

あなたの得点:36点、 社会的スキル:9点、 注意の切り替え:8点、 細部への注意:2点、 コミュニケーション:8点、 想像力:9点

「閾値を越えています。」との御託宣であった。ちなみに閾値は33点ということで、自閉症障害またはアスペルガー障害の診断基準にあてはまる健常者であり、健常者のうち高い自閉症スペクトラムに属するのかもしれない。(いじめにあったり、不登校の経験はない。20年以上サラリーマンを続けていた。ただし、度々周囲の人々から変わり者だと言われてきた。)

「予想通りの変わり者」といったところでしょうか。



ハーバード白熱教室2010/04/19 01:59:49


ハーバード白熱教室(NHKのサイト)

「ハーバード白熱教室」の第3回を見ました。1000人を超えるとはすごい学生数です。あれこれ考えながら面白く見られます。日本の大学だと、普通「授業」ではなく「講義」と言いますが、これは講義ではないので、授業ですね。実際の授業に出席して意見を言いたくなりました(英語じゃ発言できませんけど)。

ただ、ケースメソッドの授業の経験があるので、もっと学生が発言して議論が白熱したり、教授にやり込められるのかと思っていました。それでも、通常の「講義」より断然面白いですね。日本では、この程度に学生の発言を求める授業は成立するんでしょうか。学生にそれなりの予習が求められるので難しいかな。

第1回からの再放送があるそうなので見てみたいと思います。そもそも、ハーバード大学のサイトにいけば全部の授業の動画が公開されているんですね。私の英語力では50%ぐらいしか理解できないので楽しめませんが。英語の得意な人がうらやましい。


アメリカでは、所得層の上位10%が富の70%を所有している。アメリカは、民主主義国の中で、富の分配については、もっとも不平等な社会の一つである。さあ、これは公正か不公正か?サンデル教授の質問から議論が始まる。その中でリバタリアンの哲学者、ロバート・ノージックを紹介する。リバタリアンの理論によれば、政府の介入が最低限に抑えられた最小国家のみが正当化され、政府は(1)人間を自分たちから守るような法律(シートベルトを強制する法律など)、(2)社会に道徳的価値観を押し付ける法律、(3)富める者から貧しい者への所得を再分配する法律、を制定する力を持つべきではない。サンデル教授はビル・ゲイツとマイケル・ジョーダンの例を挙げ、税金による再分配は強制労働と同じであるというノージックの理論を説明していく。
Lecture 5:課税に「正義」はあるか


アメリカには私立の消防会社がある。消防会社に登録し、年間の会費を払うと、家が火事になったら、やってきて消火してくれる。しかし、彼らは誰の火事でも消してくれるわけではない。このビジネスから始まり、リバタリアンの哲学者、ロバート・ノージックの論を紹介する。彼は貧困層の住宅、ヘルスケア、教育のために、富裕層に税金を課すのは一種の強制だと主張する。学生たちは大反論する。再分配のための課税は必要だ。貧しい人の多くが暮らすためには、社会福祉が必要なのではないのだろうか?しかし、累進課税システムの社会に生きていたら、税金を払う義務を感じなくなるのだろうか?多くの場合、お金持ちの多くは、富をまったくの幸運か、一族の財産として獲得しているのではないか?この授業では、学生からなる「リバタリアン・チーム」が、これらの反論に応え、リバタリアンの哲学を弁護する。
Lecture 6 「私」を所有しているのは誰?

海老沢有道校註「どちりなきりしたん 長崎版」2010/04/09 07:00:00


海老沢有道校註「どちりなきりしたん 長崎版」岩波文庫(1950年、1991年改版)

本書の底本は、1600年(慶長5年)6月上旬長崎耶蘇会の後藤登明宗印刊行の国字本で、ローマのカサナテ文庫に所蔵される世界唯一の刊本です。

安土・桃山期の外国人宣教師が来日して布教活動を行うに際して、広く信徒に読ましめたものです。「どちりなきりしたん」とは“キリスト教の教義”の意で、現在の公教要理また教理問答ともよばれるものです。

「イデヤ(Idea;理念、キリシタン書では「相」と訳せられる)」、「ホルマ(Forma;形相、形態)」、「マテリヤ(Materia;物質)」などといった哲学概念(アリストテレス?)が語られており、武家階級、知識階級を対象として編纂されたものと考えられます。

問答形式で、それほど難しい日本語が使われているわけではないですし、ひらがなが多く難読な場合漢字を()内に付しています。そうは言っても、安土・桃山期の古文ですから、私の様に、古典が最も苦手な科目だった人間にはかなり苦しい。全体が短い(全部で118ページ)ので根性で読み進めていきます。

ちょっと引用、

弟子「ビルゼン サンタ マリヤに申しあげ奉るさだまりたるオラシヨありや。」

師匠「アベ マリアといふオラシヨなり。ただいまをしふべし。

ガラサみちみち玉ふマリヤに御れいをなし奉る。御あるじは御みとともにまします。によにん(女人)のなかをひてわきて御くはほう(果報)いみじきなり。又御たいないの御みにてましますゼズスはたつとくまします。デウスの御ははサンタ マリヤいまもわれらがさいごにも、われらあくにんのためにたのみたまへ。アメン。」

なんとか分かるけど大変です。



こちらにも「どちりなきりしたん」が掲載されていますが、たしかローマ字版からの翻字だったと思います。

池上直己「ベーシック 医療問題<第3版>」2010/04/08 07:06:46


池上直己「ベーシック 医療問題<第3版>」日経文庫(2006年)

前著池上直己、J.C.キャンベル「日本の医療―統制とバランス感覚」中公新書(1996年)が、日米制度比較をして興味深かったが、本書は2005年改正を織り込んだ日本制度の解説です。現在の医療制度の考え方、概要を知るのに最適な書籍です。

老齢期の医療については、介護保険制度の改善、高齢者医療の改善、およびそれらの連携が指摘されていますが、ニュースで報道される数々の問題点も、その点が喫緊の課題であることを知らしめています。

さらに、社会福祉費増大の抑制とと世代間公平の観点から、介護、医療、老齢年金、さらに生活保護制度の連携を早急に改善する必要があると思います。

ちなみに、海外の制度の概説は旧<第2版>の方が詳しいので、興味のある人はそちらも参照すると良いでしょう。




2002年旧版(改訂・第二版)はこちら。

カフカ「城」2010/04/04 03:23:21


カフカ「城」新潮文庫(1971年)

測量師Kが伯爵に雇われ所領の村までやってくるが、伯爵の城の役人達や村人の奇妙な応対にあい、村の中をあれこれ動き回るが、結局らちがあかないまま話は終わる。不思議な小説です。

解釈はさまざまあるようです。私は、人間が社会や組織に対して幻想(思い込み)を抱くことにより、幻想が自己実現し人間を支配していく様を描いているように思います。本当は支配者なんていないのに自ら勝手に支配されていくとでも言うのでしょうか。実際は「城」による評価など分かりもしないのに村人どうしで、村八分にしたり、「城」の覚えのめでたいものとしてちやほやされたり。一方「城」の役人もKが強引に面談してみると、より上役の気持ちを「忖度し」指示を出す。村のことなどほとんど理解してないし、決定権も持っていないと言う。そして、「伯爵」は全く登場しない。

長編小説でこの単調な不条理さはかなり読みづらい。根気がいります。

読みだしてすぐに登場人物のやりとりが、上から俯瞰されているような印象を受たので、直ぐに映画になりそうだなと思ったののですが、実際DVDになっていました。いずれにしろ単調で見るの派苦しそうですね。



内田樹「私家版・ユダヤ文化論」2010/04/01 06:26:29


内田樹「私家版・ユダヤ文化論」文春新書(2006年)

2006年だから、4年前の出版です。内田センセーは軽妙な文章で読者の楽しませてくれています。人気もありますね。「タツラー」なる人たちおられるそうです。ちょっと持って回った論理を展開するので好悪は分かれるのかもしれませんが。大学の入試部長にも就任し、学務に教育に学生に暖かく接しておられるのでしょうか。しかし、「あとがき」を読むと、先生のご苦労が偲ばれます。ある年「ユダヤ文化論」の講義を開講を終わり、「レポートを集めたら、『ユダヤ人が世界を支配しているとはこの授業を聞くまで知りませんでした」というようなことを書いていいる学生が散見された」そうです。お嬢さん方、かましてくれますね。内田センセーそれにめげずに、翌年度も開講し誤解を解こうと努力されたわけです(前年の受講者は聞いてないけど)。これが本書のネタということです。直接関係無いですが、東大の北岡教授がしばらく前の日経夕刊のコラムに書いていた、初めて東大から私立大学に移ったとき、学部長に呼ばれ、きついお達しがあったのは、「ここは本郷とは違うのだから、学生に分かるように講義をしなさい」と言われた、という話を思い出しました。研究中心の大学と違って一般の大学では、大学の教員といえども、学部学生を手とり足とり指導しなくちゃいけないでんすね。内田センセーのユーモアもこうして鍛えられたのでしょうか。

反ユダヤ主義は、そもそもユダヤ人のいない日本にも発生しているという論考は興味深いですね。明治初頭には、何故かいきなり「日猶同祖論」というトンデモ話が発生して(現在まで続いている)、欧米列強に差別されるユダヤ人は、同じく欧米列強から差別される日本と同じ境遇にあり、ともに欧米に対抗する必要がある。という一見親ユダヤ的な意見が出てくるわけですが、単に欧米の敵は味方だけの料簡です。さらに、シベリア出兵に際して、「シオン賢者の議定書」というトンでも本を仕込まされて、欧米政府資本の実権ユダヤ人ユダヤ資本にぎっており、欧米政府資本の進出はユダヤによる世界支配の手先であるなんていう陰謀説が流布してしまいます。この話は、現在でも、大手書店のコーナーに平済みされる「ユダヤ陰謀本」としては勿論、反グローバリズム、反ネオリベラリズムの文脈でも「ユダヤの陰謀」が顔を出します。日本は立派な反ユダヤ主義国のようです。

フランスの反ユダヤ主義の勃興と、破格の人生をおくったモレス伯爵が、明らかにファシズム、ムッソリーニ、ヒトラーの先駆けとなる反ユダヤ主義の「ヒーロー」として登場する話は興味を引きます。また、ドストエフスキーのユダヤ人嫌いもこの時期のフランスの反ユダヤ主義の影響を受けているという話もあったと思います。

反ユダヤ主義のさらなる分析として、非ユダヤ人サルトルを引用し「ユダヤ人は反ユダヤ主義が作った」というから議論を始めますが、著者は、この「政治的に正しい」議論には満足しません。これに対し、ユダヤ人レヴィナスの「六百万ユダヤ人―そのうちの百万人はこどもたちだった―の受難と死を通じて、私たちの世紀全体の償いえない刧罰がが開示された。それは他の人間に対する憎悪でる。それは、開示であり、黙示であった。(…)ふたたびイスラエルは聖書に記されている通り、万人の証人となり、その<受難>によって、万人の史を資に、死の果てまで進むべく呼び寄せられたのである。」を引きます。やはりユダヤ人は「選ばれた民」なのです(いわゆる選民という意味ではなく責任を負う民)。何故、責任を負うのか。それは、ユダヤの神は、個人の幸福や受難とは超絶したであり、罪なき人びとの受難こそ神の存在を顕す。最後は難解です。理解したつもりでいましたが、文章にしたら論旨がまとまりません。

と、まあ色々と論争的なネタを内田センセーは提供してくれたわけです。ここから、読者の妄想が必要になります。

第一に、著者は原則ユダヤ教徒とキリスト教徒の関係だけを見ています(日本の話が少し)。しかし、ユダヤ人は、パレスチナやイエメン、北アフリカなどイスラム世界にもいたし、彼等はキリスト教世界のユダヤ人とは違った差別を受けていたわけで、その比較をする必要があります。また、本書では全く触れられていないパレスチナ問題ですが、イスラエル(ユダヤ人とイコールでは全然ない)とパレスチナの問題は差別と非差別の関係を逆転させており、「反パレスチナ主義によるパレスチナ問題の生起」「パレスチナ人の受難に責任を負う民」という現実は、少なくとも長期的には、内田センセーの「私家版」として取り出した、サルトルやレヴィーナスのユダヤ人論を破壊する可能性があるのではないか。そして、そのときキリスト教政界における反ユダヤ主義とパレスチナ問題はリンクしながら問題解決に向かってゆくのか、あるいはさらなる受難をもたらすものなのでしょうか。

何はともあれ、面白かったです。嫌いじゃありません。